変化と雨音と

令和2年7月豪雨により甚大な被害に遭われた皆様に、謹んでお見舞い申し上げます。

大きな石を水に投げ込むことで大きな波紋が起こる様に、人々の生活もこれまでと異なる動きが起こしたうねりに巻き込まれ、大きく変化せざるを得ないことが多々ありました。

新型コロナだけでも、働き方がや住まい、食事や人との接し方など多岐にわたって影響が出ており、それが短期的なものではなく長期的に人々の生活を変化させていく事に、大勢の人が薄々気づいてるけど、まだ無視していたい頃合いだと思います。

新幹線が鹿児島まで伸びたことで拠点が福岡に集約され、日帰り出張が増えたと言っていた知人がいましたが、ともすれば今頃自宅からネット経由で鹿児島の顧客と話をしているかもしれません。

会社に近いことが最大の売りであった寝室以外の機能がない部屋に住んでいた人は、新型コロナの第n波やら会社の方針で自宅勤務が過半となる状況が続けば、もっと住みよい部屋を求めて引っ越すかもしれません。
現在の都市デザインが、密集した人の効率的な移動や居住を前提にするなら、コロナ後の世界はそれを刷新せざるをえません。

在宅勤務推奨にかこつけて交通費の支給を削減する企業がすでに出ていますが、理解が進めば在宅業務に必要な通信費と光熱費の一部が会社負担になるかもしれませんし、そんな会社の従業員に対する方針が、会社の求人に及ぼす影響に大きなウエイトを持つかもしれません。

グリーバルな供給網は、優先してきた「効率」がネックとなり、「無駄」とそぎ落としたもの種々の事柄を再度取り込むかもしれません。

あれだけ様々な業種の会社が様々なマスクを製造する機会を目の当たりにすれば、自社の技術の洗い出しや転用、研究にもっと予算が割かれ、新しいイノベーションの萌芽になるかもしれません。

人足の遠のいた飲食店は、デリバリーに活路を見出すのでしょうか? キッチンカーが高性能化して、食べに来てもらうのではなく、食べさせるためにオフィス街や住宅街に乗り込んで行く流れが生まれるかもしれません。
あるいは「お店で食事をする」ことに対する価値観にプレミアがついて、もっと特別なこととして人々が受け取るようになるのでしょうか?
恐らく「新しい生活様式」に完全批准した飲食店は、いつか見たSF映画のデストピア感満載で話題になることでしょう。

ひな壇に芸人が並ぶことはもはやなく、スタジオで収録することすら稀になる日が来るかもしれません。
逆に個人スタジオを構え、そこからのネット配信と言う、規模の大きい器から、小さくても強い個として発信していく人が多くなるのかもしれません。

起きてしまった出来事に足を止めて、ただただ立ち尽くす人もいるでしょう。そんな人の心の隙間を埋めたいと思う人達が、背後から声をかけてくるかもしれません。

あるいは、人が作った最大の共有幻想が、ついに顧みられることがなくなるのかもしれません。
ニーチェが言うようにとうとう「死んだ」と。
逆に「それ」こそが心理だと人が在るのに値す理由だと、溺信する人であふれてしまう方が現実的なのでしょうか?

 

けれど、どんな変化が起こっても、それすらも何時かは変わってしまいます。

その変化の中にあって、人は変化に対応できたから今日の繁栄を築いていると謳う人がいます。
寧ろ、様々な地域や勢力や信条の人々が作りあげた、雑多で無駄に数が多いシステム~その多様性のおかげで、一斉淘汰を免れてなんとか今日まで生き残ってる方がしっくりきます。
あるいは、激しい変化に耐え抜けてしまったが故に、こんなところまで来てしまったと、私には思えます。

何時か変化が収まり、平穏のうちに人が生きていけるときは来るのでしょうか?
それとも、変化のうちに身を躍らせ、笑いながらうねりに消えることが、人の成すべき姿なのでしょうか?

今、外は激しい雨が降り始めまして。
雨音が黙することはありませんが、その濁音から何かを聞き取ることは難しそうです。